カウラ(Cowra)の街

teradaya2017-04-16


イースターの日曜。カウラ(Cowra)は豪軍の駐留地で、戦中はイタリア人の捕虜(POW: Prison of War)収容所があり、その後日本人、台湾、韓国&インドネシアの捕虜等もここに収容されていた。1944年8月に日本人捕虜が脱走(Break Out)し234人が死亡し、豪軍人4人も亡くなったという事件が起こり、現在もキャンプ跡地、日本人墓地、豪軍殉職者墓地等がある。

朝、カウラの小さな市街地と草の茂る鉄道駅を見てから、平和の鐘を鳴らしに行く。国連が各地の首都に設けているのだが、豪州では上述の経緯もあってカウラに設置されたそう。日本語も刻まれていた。

小さな中心街  / 鉄道駅
 平和の鐘には日本語も

インフォメーションセンターでは、親切な館員がいろいろと教えてくれ、またホログラムの解説のある詳しい展示や書籍が置かれていた。カウラは今は穏やかな街でキャンピングカーがたくさん停まっていたり、多くのワイナリーがあるそうだ。人口は9000人ほど。日英で記された本を一冊買い求める。

キャンプ跡地は、山の方に10分ほど走ったところで、なだらかな丘陵の草地。野球をしたりもできたそうで、処遇はとても良かったようであるが、虜囚となることを潔しとせず死ぬ場所を求めた脱走だったようだ。確かに逃げても街までも遠いしとても活路があるとは思えない場所である。4ブロックの2つはイタリアだったそうだが、彼らは地元と大変良く交流していたそう。今もイタリア文化が多く溶け込んでいる一因でもあるよう。何組かの家族連れが来ていた。

広いが何もない草原(蛇注意とあった) / 監視塔も残っている

墓地は車で5分ほどの場所。一般の墓地に隣接して、20数名の豪州軍人の慰霊墓と日本人墓地がある。
日本墓地には灯籠があったり皇族お手植えの樹木などもある。結構な数の方が戦後にまつられていたり、女性が多いことや中韓の名前の方も埋葬されている。左側の一帯は脱走時の死亡者であり8月5日の日付が多い。一方、豪軍墓地の20数名の中に確かに4名その日に亡くなった方の墓標もあった。ほんの100mほどの距離。何人かのオーストラリアの人たちが両墓地を訪れていた。大変綺麗に整備されていた。
 日本人墓地は綺麗にしてある

街に下って10分、カウラ日本庭園がある。ここにはたくさんの人が来ていて、カウラ観光の中心となっている。広大な庭園で南半球最大の日本庭園だそう。高低差を生かした回廊式庭園だが、ゴルフカートで回れるようになっているので高齢の方も多く来ていた。鯉が池に泳ぎ、松や椿などがユーカリなど当地植生と混じり合っているが、確かに日本庭園の風情がある。東屋や茶室もいろいろな寄付によって作られているよう。おそらく日本人は今日は私一人であったが、いろいろあっても日本文化を受けとめてくれているやさしいオージー達にありがたく思う。そういえば、Motel Break Out という4つ星もあった。



茶室(岡山からの寄贈) / 変な土産キャラがたくさん


鳥と植物もいろいろ




12時半、帰路につく。ふたたび320kmの道をひたすら走り、17時過ぎにノースシドニーの自宅に帰着。
どこまでもこんな感じ

家に着いたら夕焼けが綺麗であった